2007年6月25日月曜日

夏目漱石 「それから」

夏目漱石「それから」を一昨日から読み始め、ほぼ本日1日で読了。

自分の連れ添いがたまたま読んでいたところ、久しぶりに読み返してみたくなった。そいつは今、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に取り掛かっている。自分はもう2~3回読んだかな、非常に面白い。

漱石は自分にとって、現在の<思考、嗜好、志向>を、過去と比する目方のようなものだ。とくに「こころ」なぞは、毎年帰省するたびに読んでいるので、読書中、読後感、の過去からの変遷を省みるに、自身の考え方の変遷を表している。

自身にとって漱石と縁の深い概念?、は「高等遊民」というものである。「こころ」の先生にしろ、「それから」の代助にしろ、W大時代の遊民生活時(本当に遊民だったと今は感じる)には彼らの行動、思考に共感を抱いていた。遊民といっても、俗物(snob)ではなく、「私の個人主義」の自己責任的な発想や、「草枕」に現れる厭世的で漂泊的な感じが非常に好ましかった。

「それから」は、現代の時代状況、なんて大上段に振りかぶらなくても、ある種当てはまる部分がある気がした。明治期ではまだすべての人が豊かでないし、階級や差別もあったので、今より当然封建的社会であったが、過去の規範がどんどん塗り替えられ、経済的・情報的デバイドが進む現代社会において、ある意味小賢しいニート=代助(自分もそうかも知れない)という存在が、リアルに感ぜられる。

過去に感じなかったものとしては、人妻三千代の地味さの割りに創造で膨らむエロティシズム(昔は感じなかったな)がある。「不可解としての女性」という存在と「境界を越境する女性」という存在として、描かれている気がした。

雪崩を打つように結末に転がっていく、テンポの変化も良かった。緩急を必要とするのは、道化話か悲劇である。読者の読書時の気分でどちらにもとれる話である。

今でも漱石は「先生」であり、かつ、「純文学」という枠にとらわれない娯楽作家でもあることを再確認した次第。